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年齢
-9歳
10代
20代
30代
40代
50代
60代
70代
80代
90代
100歳-
性別
男性
女性
身長
-140cm
140-150cm
150-160cm
160-170cm
170-180cm
180-190cm
190-200cm
200cm-
体重
-40kg
40-50kg
50-60kg
60-70kg
70-80kg
80-90kg
90-100kg
100-120kg
120-140kg
140-160kg
160kg-
血液型
A型
B型
O型
AB型
河野通清
河野 通清(かわの みちきよ)は、平安時代末期の伊予国風早郡河野郷の武将・豪族。河野氏は伊予第一の名族で国造の末裔・越智氏の流れを汲むという。
河野通堯
河野 通堯(かわの みちたか)は、南北朝時代後期の武将、守護大名。伊予守護。河野通朝の子。
河野通忠
河野 通忠(かわの みちただ、文永5年(1268年) - 没年不詳)は、鎌倉時代後期の武士。伊予国の河野通有の子。通称は八郎。弘安4年(1281年)の弘安の役では、14歳で父とともに従軍して奮戦する。
河野通継
河野 通継(かわの みちつぐ、生没年不詳)は、鎌倉時代中期の伊予国の武士。河野通久の子。弥九郎、上野介。河野通有の父。嘉禎3年(1237年)に父から伊予国石井郷の同郷別名を譲られる。
河野通時
(743歳)
獅子座
河野 通時(かわの みちとき、生年不明 - 弘安4年7月29日(1281年8月14日))は、鎌倉時代中期の伊予国の武士。河野通久の子。通継の兄。通称・左衛門四郎。
河野通朝
(659歳)
射手座
河野 通朝(かわの みちとも、?-貞治3年/正平19年11月6日(1364年11月29日))は、南北朝時代の武将。河野通盛の子、通堯の父。通称は六郎もしくは対馬六郎。父・通盛とともに北朝方として転戦、足利義詮の推挙で遠江守に任ぜられる。
河野通直 (伊予守)
河野 通直(かわの みちなお)は、伊予国の戦国大名河野氏最後の当主。後述するが、村上通康、もしくは河野通吉の子ともいわれるが定かではない。
河野通直 (弾正少弼)
河野 通直(かわの みちなお)は、伊予国の戦国大名・河野氏の当主。
河野通信
河野 通信(かわの みちのぶ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての伊予国の武将。河野通清の子。伊予水軍の将。一遍の祖父にあたる。
河野通宣 (刑部大輔)
(故人)
山羊座
河野 通宣(かわの みちのぶ、生年不詳 - 永正16年(1519年))は、戦国時代の伊予国の戦国大名。伊予河野氏の当主。湯築城主。
河野通宣 (左京大夫)
河野 通宣(かわの みちのぶ)は、戦国時代の武将・大名。伊予河野氏の当主。湯築城主。
河野通軌
河野 通軌(かわの みちのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。伊予国の戦国大名河野氏の一族。伊予河野氏の名目的当主であった。養父は河野通直。
河野通春
河野 通春(かわの みちはる)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将、守護大名。伊予守護。居城は港山城。河野氏宗家と対抗した分家の予州家当主。
河野通久
河野 持通/通久(かわの もちみち/みちひさ)は、室町時代中期の武将。伊予の守護大名。
河野通久 (鎌倉時代)
河野 通久(かわの みちひさ、生没年不詳)は、鎌倉時代前期の伊予国河野氏の当主。河野通信の子で母は北条時政の娘とされる。通称は九郎左衛門。法名を敬蓮。承久の乱において、父や兄の通政ら一族のほとんどが朝廷方についたが、通久のみは母方の縁で鎌倉幕府方についた。
河野通広
(761歳)
蟹座
河野 通広(かわの みちひろ、生年不詳 - 弘長3年5月24日(1263年7月1日))は、鎌倉時代の武将。別名別府通広。父は河野通信。弟は河野通久。子は一遍智真。承久の乱の時には、西山上人証空の下で僧、如仏として出家していたためどちらにもつかずに参加していない。
河野通盛
(659歳)
射手座
河野 通盛(かわの みちもり ?-貞治3年/正平19年11月26日(1364年12月19日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武士。後に伊予国の守護職となる。河野通有の7男で母は河野通久の娘。初名は通治。通称は九郎左衛門尉。官途は対馬守。河野氏の本拠として知られる湯築城の築城者と伝わる。
河野通之
河野 通之(かわの みちゆき、生没年不詳)は、室町時代前期の守護大名。河野通堯の子、通元の父。幼名は鬼王丸、通称は六郎。官途名は対馬守。応永元年(1394年)に兄の通義が26歳で急死したため、伊予国守護職を継承する。
河野通義
(629歳)
射手座
河野 通義(かわの みちよし、応安3年/正平25年(1370年)-応永元年11月16日(1394年12月9日))は、南北朝時代から室町幕府初期にかけての守護大名。河野通堯の子で通久の父。幼名は亀王丸。
河野通政
河野 晴通/通政(かわの はるみち/みちまさ)は、河野氏の当主。父は河野通存(みちまさ)、養父は河野通直。弟に石川通昌、河野通宣、野島直信(のじま なおのぶ)がいる。「通政」は初名であり、のちに室町幕府の将軍・足利義晴より偏諱を受けて晴通と改名した。
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