P
erson
H
ub
×
8,478件の検索結果
(0.07sec)
高度な検索
出身
北海道
青森県
岩手県
宮城県
秋田県
山形県
福島県
東京都
神奈川県
埼玉県
千葉県
栃木県
群馬県
茨城県
山梨県
長野県
新潟県
富山県
石川県
福井県
愛知県
岐阜県
静岡県
三重県
大阪府
京都府
兵庫県
滋賀県
奈良県
和歌山県
広島県
岡山県
鳥取県
島根県
山口県
徳島県
香川県
愛媛県
高知県
福岡県
佐賀県
長崎県
熊本県
大分県
宮崎県
鹿児島県
沖縄県
年齢
-9歳
10代
20代
30代
40代
50代
60代
70代
80代
90代
100歳-
性別
男性
女性
身長
-140cm
140-150cm
150-160cm
160-170cm
170-180cm
180-190cm
190-200cm
200cm-
体重
-40kg
40-50kg
50-60kg
60-70kg
70-80kg
80-90kg
90-100kg
100-120kg
120-140kg
140-160kg
160kg-
血液型
A型
B型
O型
AB型
山口高忠
山口 高忠 (やまぐち たかただ、生没年未詳)は、室町時代初期の武蔵国入間郡の国人。父は山口高治。山口城・根古屋城城主。通称は小太郎。
石塔直房
石塔 直房(いしどう ただふさ、生没年不詳)は、南北朝時代の武将。足利氏支流・石塔氏の一族。苗字は「石堂」とも表記される。官職は中務大輔。名はのちに石塔忠房(ただふさ)と改めた。
大崎教兼
大崎 教兼(おおさき のりかね)は、室町時代の守護大名。奥州探題。大崎氏の第7代当主。父持詮と同じく、教兼についても諸説紛糾しているが、以下、通説に従う。
大崎持詮
大崎 持詮(おおさき もちあきら)は、室町時代中期の陸奥大崎氏の第6代当主。持詮については学説上、諸説あるがここでは通説に従う。
大崎持兼
大崎 持兼(おおさき もちかね)は、室町時代の守護大名。
国分胤重
国分 胤重(こくぶん たねしげ)は、日本の鎌倉時代の武士で、御家人である。『吾妻鏡』建長2年(1251年)1月20日条に、征夷大将軍藤原頼嗣が二所に参詣したという記事があり、従った御家人を記す。その後陣の随兵12騎の中に、国分二郎胤重の名がある。これが胤重について唯一確実なことである。
国分宗政
国分宗政(こくぶんむねまさ、生没年不明)は、日本の戦国時代に陸奥国宮城郡にいた武将である。能登守を称した。はじめ盛光といったとする伝えがあり、また、弾正少弼を称した国分宗綱も同一人物とされる。周辺の土豪を従えて宮城郡南部から西部を支配する勢力を築いた。
国分盛氏
国分 盛氏(こくぶん もりうじ、生没年不明)は、日本の戦国時代の武将であり、陸奥国宮城郡南部に勢力を持った国分氏の当主である。盛氏が当主となったのは1572年かそのしばらく後と考えられている。
新城村尚
新城 村尚(しんじょう むらひさ/むらなお)は、戦国時代の武将。二本松氏庶流・新城氏第4代当主。陸奥国安達郡椚山城主。
乳井建定
乳井 建定(にゅうい たてさだ)は、江戸時代前期の弘前藩の家老。
西山大衛
西山 大衛(にしやま だいえい、生没年不詳)は、幕末の肥後国熊本藩の藩士。室町幕府13代将軍足利義輝と烏丸氏との遺子を称する尾池玄蕃の後裔とされる西山家の当主。家格比着座同列定席。石高は1100石。藩内派閥は保守派である学校党に所属。明治2年8月(1869年)まで奉行を務める。
西山至之
西山 至之(にしやま のりゆき、生没年不詳)は、江戸時代初期の肥後熊本藩士。室町幕府13代将軍足利義輝の遺児といわれる尾池義辰の子。初め尾池伝右衛門(諱:唯高)と称し、後に姓名を改めて西山左京(至之)を名乗った。
大江佐房
大江 佐房(おおえ の すけふさ)は、鎌倉時代の武将。鎌倉幕府の御家人。鎌倉幕府京都守護大江親広の長男。鎌倉幕府政所初代別当大江広元の孫。
源親弘
源 親弘(みなもと の ちかひろ)は、平安時代末期の武士。中務丞・源頼治(宇野冠者)の子。陸奥守・源頼俊の孫にあたる。官位は対馬守、下野権守(『保元物語』によれば下野守)。摂津国豊島郡に住し「豊島権守」と号した。後に宇野頼弘と改名したという。
源頼治
源 頼治(みなもと の よりはる)は、平安時代後期の武将。大和源氏、陸奥守・源頼俊の次男。通称は宇野冠者。官位は中務丞。宇野氏の祖。
巨勢郎女
巨勢郎女(こせのいらつめ、生没年不詳)は巨勢比等の娘。大伴安麻呂の妻、田主の母。旅人の母であるとも考えられている。
伊達敦重
伊達 敦重(だて あつしげ、生没年不詳)は、久保田藩重臣。国分氏の後身の秋田伊達氏8代目当主。久保田藩家老の伊達峯宗(備前)の次男。養父は実兄の伊達敦宗(外記)。通称は兄と同じく外記を称す。男子に伊達和宗(まさむね、彦九郎)、国分専之助、国分又五郎の3人がいる。
伊達敦宗
伊達 敦宗(だて あつむね、生没年不詳)は、久保田藩重臣で同藩の相手番。国分氏の後身の秋田伊達氏7代目当主。父は久保田藩家老の伊達峯宗(備前)。通称は外記。妻は久保田藩重臣の古内蔵人の娘。代々の秋田伊達氏当主と同様、藩主佐竹義敦より偏諱を拝領する。
伊達処時
伊達 処時(だて すみとき、旧字体・正式表記: 伊達處時、生没年不詳)は、久保田藩重臣。国分氏の後身の秋田伊達氏4代目当主。先代の伊達隆宗(外記)の子。通称は一十郎。内室は久保田藩重臣大山因幡の娘、同藩家老の梅津茂右衛門の娘で渋江光重の妹。
伊達隆宗
伊達 隆宗(だて たかむね、生没年不詳)は、久保田藩重臣。国分氏の後身の秋田伊達氏3代目当主。父は伊達宣宗(左門)。母は佐竹義種の妹。幼名は自然丸。通称は外記。妻は久保田藩家老の宇都宮光綱(帯刀)の娘。子女は梅津内蔵允室、伊達処時、信太内蔵助室、今宮永教(外記)室。
ページ 210 / 424
< ページ209
ページ211 >