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年齢
-9歳
10代
20代
30代
40代
50代
60代
70代
80代
90代
100歳-
性別
男性
女性
身長
-140cm
140-150cm
150-160cm
160-170cm
170-180cm
180-190cm
190-200cm
200cm-
体重
-40kg
40-50kg
50-60kg
60-70kg
70-80kg
80-90kg
90-100kg
100-120kg
120-140kg
140-160kg
160kg-
血液型
A型
B型
O型
AB型
証如
証如(しょうにょ、證如)は、戦国時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第10世宗主・真宗大谷派第10代門首。山科本願寺、大坂本願寺住職。諱は光教。院号は信受院。法印権僧正。父は円如。本願寺第8世蓮如の曾孫。九条尚経の猶子。正室は庭田重親の娘・顕能尼。第11世顕如は長男。
義演
(故人)
天秤座
義演(ぎえん、永禄元年8月20日(1558年10月1日)- 寛永3年閏4月21日(1626年6月15日))は、戦国時代から江戸時代にかけての真言宗の僧。父は二条晴良、母は伏見宮貞敦親王王女の位子。兄に九条兼孝・二条昭実、弟に鷹司信房がいる。
満済
満済(まんさい/まんぜい)は、南北朝時代から室町時代中期にかけての醍醐寺(真言宗)の僧。僧としては破格の准三后を授かったことから、満済准后(まんさい じゅごう)、法身院准后(ほっしんいん じゅごう)、三宝院満済(さんぼういん -)としても知られる。
中院通勝
中院 通勝(なかのいん みちかつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての公卿・歌人・和学者。内大臣・中院通為の三男。官位は正三位・権中納言。
西洞院時慶
西洞院 時慶(にしのとういん ときよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての公家・歌人・医者。権大納言・飛鳥井雅綱の孫。安居院僧正・覚澄の子。官位は従二位・参議。西洞院家26代当主。号は松庵。
九条兼実
九条 兼実(くじょう かねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の六男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。通称は後法性寺関白(ごほっしょうじ かんぱく)。
広橋経光
広橋 経光(ひろはし つねみつ)は、鎌倉時代中期の公卿。「広橋経光」は室町期の家名を過去遡及的に適用したもので、同時代には勘解由小路 経光(かでのこうじ つねみつ)と称した。権中納言・広橋頼資の長男。官位は正二位・民部卿、権中納言。日記『民経記』の著者。
吉田定房
吉田 定房(よしだ さだふさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。藤原北家勧修寺流吉田家、権大納言・吉田経長の長男。官位は従一位・内大臣。
大宮長興
大宮 長興(おおみや ながおき)は、室町時代後期の官人。左大史・大宮為緒の子。号は喜弥軒、後に文決軒。法号は寿官。官位は正四位上・治部卿。小槻氏系大宮官務家当主。
五条為学
五条 為学(ごじょう ためざね)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿。五条為親の子。幼名は文地丸。官位は正二位・権大納言。五条家10代当主。日記『拾芥記』で知られている。
近衛政家
近衛 政家(このえ まさいえ)は、室町時代中期から戦国時代前期にかけての公家。関白、太政大臣。藤原北家摂家近衛家14代当主。一字名は霞。号は後法興院。
近衛道嗣
近衛 道嗣(このえ みちつぐ)は、南北朝時代の公卿。近衛家10代当主。
三条公忠
三条 公忠(さんじょう きんただ)は、南北朝時代の公卿。従一位内大臣。後押小路内大臣と号す。父は内大臣三条実忠、母は左中将藤原公直の娘。子には太政大臣に至った実冬、藤原(三条)厳子(通陽門院)、実円、実禅がいる。
三条実冬
三条 実冬(さんじょう さねふゆ)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての公卿。内大臣・三条公忠の子。官位は従一位・太政大臣。
三条西実隆
三条西 実隆(さんじょうにし さねたか)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿。内大臣・三条西公保の次男。官位は正二位・内大臣。能書家でもあった。
中院通秀
中院 通秀(なかのいん みちひで)は、室町時代中期から後期にかけての公卿・歌人。准大臣・中院通淳の長男。初名は通時。官位は従一位・内大臣。十輪院内府と号す。弟に歌人として高名な肖柏がいる。日記『十輪院内府記』の記者として知られる。
中御門宣胤
中御門 宣胤(なかのみかど のぶたね)は、室町時代中期から戦国時代にかけての公卿。藤原北家勧修寺流中御門家当主。官位は従一位・権大納言。出家後の法名は乗光。
広橋兼宣
広橋 兼宣(ひろはし かねのぶ)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての公卿。権大納言・広橋仲光の子。官位は従一位・大納言、贈内大臣。広橋家7代当主。
万里小路時房
万里小路 時房(までのこうじ ときふさ)は、室町時代前期から中期にかけての公卿。内大臣・万里小路嗣房の子。官位は従一位・内大臣。法号を建聖院。万里小路家7代当主。日記『建内記』(『建聖院内大臣記』或いは『建聖院内府記』、10巻)の著者として知られている。
山科言経
山科 言経(やましな ときつね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての公卿。権大納言・山科言継の子。官位は正二位・権中納言。山科家13代当主。『言経卿記』の著者。
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