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年齢
-9歳
10代
20代
30代
40代
50代
60代
70代
80代
90代
100歳-
性別
男性
女性
身長
-140cm
140-150cm
150-160cm
160-170cm
170-180cm
180-190cm
190-200cm
200cm-
体重
-40kg
40-50kg
50-60kg
60-70kg
70-80kg
80-90kg
90-100kg
100-120kg
120-140kg
140-160kg
160kg-
血液型
A型
B型
O型
AB型
千種忠顕
千種 忠顕(ちくさ ただあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。権中納言・六条有忠の次男。官位は従三位・参議、贈従二位。千種家の祖。
洞院公泰
洞院 公泰(とういん きんやす)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿・歌人。左大臣・洞院実泰の三男。公賢・公敏の庶弟、守子(後醍醐天皇妃)の同母弟。後宇多法皇の養子となる。官位は正二位・権大納言(北朝)、従一位・右大臣(南朝)。冷泉(れいぜい)と号した。
洞院実守
洞院 実守(とういん さねもり)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。左大臣・洞院実泰の四男。庶兄公賢の養子となり、父から家門継承を期待されるも達せられず、南北朝間を往来した。官位は正二位・大納言(北朝)、右大臣(南朝)。
徳大寺公清
徳大寺 公清(とくだいじ きんきよ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。権中納言・徳大寺実孝の子。官位は従一位・内大臣。後野宮と号す。
中院通冬
中院 通冬(なかのいん みちふゆ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。内大臣・中院通顕の子。官位は従一位・大納言。故実に通暁して源氏長者に補されたが、南朝伺候が原因で任槐せず大納言で終わった。『中院一品記』の記主。
二条為定
二条 為定(にじょう ためさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿・歌人。二条為道(為通)の子。
二条為遠
二条 為遠(にじょう ためとお)は、南北朝時代から室町時代にかけての公卿・歌人。二条為定の子。
二条為世
二条 為世(にじょう ためよ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての公卿・歌人。歌道二条派の祖二条為氏の長男。極官が権大納言だったので藤大納言とも呼ばれた。
二条道平
二条 道平(にじょう みちひら)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期の公家。摂政・関白二条兼基の子。母は京極為顕の娘・宣子。官位は従一位・関白・左大臣。二条家4代当主。号に後光明照院関白。
橋本実俊
橋本 実俊(はしもと さねとし)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。太政大臣・西園寺公相の四男。官位は正三位・参議。橋本家の祖。
広橋兼綱
広橋 兼綱(ひろはし かねつな)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。勘解由小路兼綱とも。権中納言・広橋光業の子。官位は従一位・准大臣、贈左大臣。瑞雲院と号す。
広橋光業
広橋 光業(ひろはし みつなり)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。権中納言・広橋兼仲の次男。官位は従二位・権中納言。勘解由小路と号す。
藤原光継
藤原 光継(ふじわら の みつつぐ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公家。藤原光泰の次男。葉室家庶流堀川家。葉室光俊の曾孫にあたる。官位は従二位・権中納言、信濃守。
坊門清忠
坊門 清忠(ぼうもん きよただ)は、鎌倉時代から南北朝時代初期にかけての公卿。従三位坊門基輔の孫、左中将坊門俊輔の子。後醍醐天皇の古参の側近として建武政権下で活躍し、南北朝分立後は南朝に仕えた。建武政権・南朝を文書行政面から支え、重臣吉田定房との相次ぐ死は後醍醐帝に深く悼まれた。
松殿忠嗣
松殿 忠嗣(まつどの ただつぐ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。正二位参議・松殿通輔の子。官位は正二位・権大納言。『松亜記』の著者。
松殿忠冬
松殿 忠冬(まつどの ただふゆ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。正二位権中納言・松殿冬房の子。官位は従二位・権中納言。
万里小路宣房
万里小路 宣房(までのこうじ のぶふさ、正嘉2年〈1258年〉 - 貞和4年/正平3年〈1348年〉?)は、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけての公卿。従三位・万里小路資通の子。官位は従一位・大納言。北畠親房・吉田定房と共に、後醍醐天皇の側近「後の三房」の一人に数えられる。
万里小路藤房
万里小路 藤房(までのこうじ ふじふさ)は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての公卿。大納言・万里小路宣房の一男。官位は正二位・中納言。後醍醐天皇の側近として倒幕運動に参画し、建武政権では恩賞方頭人や雑訴決断所寄人など要職を担った。だが、突如、世を儚んで出家した。
柳原資明
柳原 資明(やなぎわら すけあきら)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。藤原北家真夏流日野家、権大納言・日野俊光の四男。官位は正二位・権大納言。「柳原殿」と称される邸宅に住んでいたため、柳原を家名とした。柳原家の祖。
吉田定房
吉田 定房(よしだ さだふさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。藤原北家勧修寺流吉田家、権大納言・吉田経長の長男。官位は従一位・内大臣。
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